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Artist Statement  *English follows

 私は、ポストフォトグラフィーとテクノロジー批評の交差点に立ち、AIと写真メディアに内在する制度性を再考し、コンセプチュアルに可視化する作家である。

 大学では心理学を学び、英国と南アフリカ共和国で国際NGOの感染症予防計画に従事した後、金融機関で金融およびITの実務に携わった。これは一見脈絡のない遍歴に見えるかもしれないが、この展開は学部時代の研究主題である「一般システム理論」を基盤に持つ不可視の構造への関心に根差し、また同時代の社会的イシューに対するコミットメントでもあった。

 その後、2015年に報道写真家として写真のキャリアをスタートし、被災地などの取材や、ロボットやドールなど人工物と関係を結ぶ人々のドキュメンタリー制作などを経て、よりメタ的な写真表現へと軸足を移してきた。

この変化の背景には、「見ることは個人的な知覚のみに限らず、社会的な機能をもつ」という気づきがあった。報道写真家として活動していた時期、国内で地震の被災地を取材し、そこで撮影した写真がマスメディアを通じて配信された。その情報が電力設備のダメージの特定と早期復旧にリアルタイムで影響を与えた。このような遠隔地とのコミュニケーションを経験しながら、私は自分が肉体をもった共同体の危険発見センサーとして機能していることを実感した。見ることは共同体の知覚の一部を担う行為であり、社会の神経の一端として共同思考することでもある。このような実体験が写真や視覚メディアを根本から問い直すきっかけとなった。

 このような経緯から、私の実践は目の前の現実を光学的に「写す」ことを必ずしも目的としない。むしろ、現実がいかに写され(再現)、そして移され(伝達)るのか、その視覚処理や表象化の構造と、個体レベルと共同体レベルにおける情報流通メカニズムを問い直す。換言すれば、〈窓〉に映る世界を語るだけではなく、その〈窓〉自体がどのような構造を持ち、私たちの視線をいかに規定するのかを問う。

 ここで前提とするのは、「視線とは本来的なものではなく、他者によって訓練され、歴史的・生物学的に構築され、社会で制度化された知覚のプロトコルである」ということだ。私たちは世界を「自由に見ている」と思いながら、実際には社会的・文化的に選別された像の連なりを「現実」として内面化している。

 画像生成AIは、人の視覚の集積=集合的視線の履歴を学習し、再構成してフィードバックする「鏡」と言える。
《Typical World》シリーズでは、「typical + ○○」というプロンプトによってAIが生み出す像を通して、視覚のバイアス、文化的ステレオタイプ、言語の強制力、そして私たち自身の見方を暴露する。そこに写るのは、「AIという鏡像空間で反芻された風景」である。個人の視線は記録され、複製され、分類され、やがて「典型」として制度化される。それはもはや個人の知覚ではなく、情報技術と人間の文化的履歴が織りなす、惑星レベルの共同意識の反響である。

 重要なのは、人の視覚受容体験が常に視覚情報技術によって変容してきたという事実だ。19世紀に写真機の発明がもたらした「視覚の再現自動化」は、当時の画家たちの意識をがらりと変え、印象派の画家たちは最も敏感に反応したはずである。彼らはもはや現実を正確に「写す」必要を失い、代わりに「見るという行為そのもの」を分解し、再構築しようとした存在だと私は理解している。モネやスーラの筆触分割は、ただ単に画面を明るくするための描写技法だけではなく、人の視覚神経のアルゴリズムをハックする試みでもあった。色と色の干渉により脳内で像が生成される過程は、AIが光や色、エッジの確率分布から特徴を抽出し像を生成するプロセスと構造的に類似する。

写真機の発明は人間の眼球の機能を外在化し、印象派はその「知覚の解体」に応答したように思う。今日、AIによる生成技術はさらに一歩進み、視覚脳の知覚システムの構成そのものを自動化する。言い換えれば、印象派が筆触によって視覚のアルゴリズムを探求したなら、AIは演算(数式と確率)によってそれを再実装する。私の関心は、この「技術史的な連続性の中で、どのように人の視覚が制度化され、再編成されてきたか(そして、されつつあるか)」にある。

 私の視覚批評的実践は、ヒト・シュタイエル、トレヴァー・パグレン、ジェームズ・ブライドル、ジョアン・フォンキュベルタといった、監視・画像政治・アルゴリズム・テクノロジー批判を中心に据えた作家と問題意識を共有しながら、一方で杉本博司、トーマス・ルフ、ジェフ・ウォールのように、写真メディアの制度性や、時空間、知覚のあいだの関係性を扱う実践とも共振する。こうした視覚をめぐる思索は、光学装置の歴史をたどることでも浮かび上がる。レンブラントやフェルメールといった古典的な画家たちがカメラ・オブスクラやカメラ・ルシーダを援用していたとデイヴィッド・ホックニーが示唆したように、私もまた写真機や画像生成装置の進化に伴走しながら、「見るとは、知覚するとは何か」という問いを更新しようとする、視覚と技術の相互構造に向き合う芸術の系譜に位置している。

 構図、陰影、色、フォーカスといった要素は、私にとって単なる視覚効果ではない。それらは、「知覚はいかに生成されるか」という問いをめぐる哲学的・認知心理学的実験であり、私の作品の背景には常にこの構造的関心がある。この問いはプラトンの「洞窟の比喩」にも通じる。私たちは、情報の壁に投影された影を現実と信じる囚人のように、テクノロジーが再構成した像を盲目的に「リアル」として受け取ってはいないだろうか。そして今日の影は、もはや無垢な幻などではない。それらはアルゴリズムによって巧妙に選別され、集合知によって強化され、ときに戦略的に設計された「認知戦」のツールとして働いている。

 ​《あの海に見える岩を、弓で射よ》シリーズでは、対象を把握することよりも、「対象に対して“見る”という行為が向けられる構造」そのものを主題とする。「見せる者」によって誘導された「見る者」の視線が「見られる者」に向かって放たれ、ときに思いもよらない場所に突き刺さる。その構造的暴力を引き受けることこそが、写真というメディアが抱える根源的な倫理の場であると私は考える。

 見るという行為への私の執着は、単なる文化的・美学的関心ではない。それは生命のレベルで刻まれた、より根源的な衝動に由来している。人間を含む多くの生物にとって「見ること」は、生存手段であり、世界を先読みするための武器であり続けた。私たちの視覚神経は、単に光を受け取る器官ではなく、敵を察知し、餌を見分け、危険を予測するために進化してきた生存のためのアルゴリズムである。つまり視覚とは、命を守るための即応的推論装置であり、常に「次の瞬間に何が起こるか」を予測する構造を持つ。この生理的メカニズムこそ、近年の脳科学が示す「予測符号化」である。この理論は、人間の知覚を「受動的な入力」ではなく「生成的なモデル」と捉え直している。私たちは外界をそのまま見ているのではなく、常に世界を予測し、誤差を通じてモデルを修正し続けている。この観点からすれば、生成AIは人間の視覚システムのシミュレーターとして、現時点でもっとも正確に予測・誤差・修正する装置と言えるだろう。

 ユクスキュルが述べたように、生物はそれぞれ固有の「環世界(Umwelt)」の中で世界を経験する。人間の視覚もまた、文化的・生物学的条件によって構築された一つの環世界であり、客観的世界そのものではない。今日、AIの視覚が登場したことで、私たちは「人間とは異なる知覚体系をもつ他者」と世界を共有しはじめている。AIはデータから意味を抽出し、その内部で独自の「魔術的環世界」を形成しながら像を生み出す。その像は単なる模倣ではなく、異種の知覚体系が生成したもうひとつの世界である。私の実践は、人間と機械の環世界が接触するこの界面を可視化するための、視覚批評的な試みである。

 私はシステムのエラーやAIの幻覚(ハルシネーション)を、単なる修正すべきバグとしては扱わない。むしろ、システムの制御不能な暴走が生み出すグリッチやノイズに美を感じ、またシステムの本質(リアリティ)が筆遣いによって暴露されると考え、グリッチアートやアレ・ブレ・ボケ写真のように積極的に受け入れる。これは日本の茶道における侘び寂びが不完全なものに美を見出すように、あるいは古来日本人が万物に魂が宿ると信じたように、AIという「異種の知性」が生成する理解不能な現象を受容し、共存しようとする態度である。私は構造主義的ロジックでシステムのブラックボックスの監査を試みる一方で、そこから溢れる予測不能なイメージに対しては、手放して委ねる。この「論理構築」と「偶発への委任」の間の撞着が、私の作品の核にある。

 ホモ・サピエンスが他種と決定的に異なっていたのは、見知らぬ他者と虚構を共有し、協力する能力だった。宗教や神話、国家や貨幣といった抽象的な物語を信じることで、個体を越えた連帯を築き上げてきた。

その「虚構の共有」を可能にしたのが、視覚の共有システム、すなわち絵画であり、やがて写真である。これらのイメージは、単なる表象ではなく、社会的知覚を形成し、集合的意識を維持するための装置だった。

 以上のように私の実践は、視線の構造を解体し、視覚情報伝達制度を批評しながら、テクノロジーによって拡張された知覚の構造を再考し、人類の進化の行く末を写真という形式を通して再帰的に考える試みである。

2025.11.21        苅部 太郎

 

I stand at the intersection of post-photography and technology criticism, reexamining and conceptually visualizing the institutional structures embedded within AI and photographic media.

I originally studied psychology at university, then worked on infectious disease prevention programs with international NGOs in the UK and South Africa, followed by experience in finance and IT at a financial institution. While this trajectory might appear disjointed, it is in fact rooted in a consistent concern for invisible systems—an interest grounded in my undergraduate research on “General Systems Theory” and my commitment to engaging with the social issues of my time.

 

In 2015, I began my career as a photojournalist, covering disaster-stricken areas and documenting communities that form relationships with artificial entities such as robots and dolls. Over time, I shifted toward a more meta-photographic practice. This transition was prompted by a realization: seeing is not merely a personal act of perception but also a social function.
While reporting on earthquake-affected regions in Japan, I witnessed how my photographs—distributed through mass media—helped identify damaged power facilities and contributed to rapid recovery efforts. Through such experiences, I became aware that my body functioned as part of a communal sensor network for detecting danger. To see is to participate in a shared mode of perception, a cognitive process that extends into the social body. This realization became the foundation for my critical inquiry into the photographic medium itself.

 

My practice, therefore, is not necessarily concerned with optically reproducing visible reality. Rather, it questions how reality is captured, represented, and transmitted—interrogating the visual and informational mechanisms that operate at both individual and collective levels.

In other words, I am less interested in the “world through the window” than in the structure of the window itself: how it is built, and how it conditions what we can and cannot see.

My work begins from the premise that vision is not innate—it is trained by others, historically and biologically constructed, and institutionalized as a social protocol of perception. We believe we “see freely,” yet in reality, we internalize socially and culturally filtered images as “reality.”

Image-generating AI, in this sense, functions as a mirror—an apparatus that learns from and reconstructs the collective history of human vision.

 

In my series Typical World, I use prompts like “typical + ___” to expose visual bias, cultural stereotypes, linguistic coercion, and the ways our own ways of seeing are conditioned. What appears is a “landscape regurgitated within the mirrored space of AI.” Individual gazes are recorded, replicated, and categorized, eventually institutionalized as “typical.” It is no longer individual perception but a planetary echo of collective consciousness woven from information technology and human cultural memory.

What is crucial here is that human visual experience has always been transformed by visual technologies. The invention of the camera in the 19th century automated visual reproduction and profoundly altered painters’ consciousness. The Impressionists, among the most responsive, no longer sought to “accurately depict” reality but instead deconstructed and reconstructed the very act of seeing.


I understand Monet’s and Seurat’s divided brushstrokes not merely as a technique for brightening the canvas, but as an attempt to hack the algorithm of human visual processing. The optical interference of colors that generates an image in the brain structurally resembles the way AI extracts features from the probabilistic distribution of light, color, and edges.
The camera externalized the function of the human eye, and the Impressionists responded to this “deconstruction of perception.” Today, AI generation technologies go a step further—they automate the architecture of perception itself. If the Impressionists explored visual algorithms through brushstrokes, AI reimplements them through computation—via mathematics and probability.


My interest lies in this technological continuum: how human vision has been institutionalized, reorganized, and is still being reconfigured.

My visual-critical practice shares concerns with artists such as Hito Steyerl, Trevor Paglen, James Bridle, and Joan Fontcuberta, whose works focus on surveillance, image politics, and algorithmic critique. At the same time, it resonates with the practices of Hiroshi Sugimoto, Thomas Ruff, and Jeff Wall, who explore the institutional nature of photography and the relations between space, time, and perception.
These reflections on vision also emerge through the history of optical devices. As David Hockney suggested that painters like Rembrandt and Vermeer may have used the camera obscura or camera lucida, I too see myself as working within a lineage of artists who have examined the co-structure of vision and technology—artists who, through the evolution of imaging apparatuses, continually renew the question: What does it mean to see?

For me, composition, light and shadow, color, and focus are not mere aesthetic effects but philosophical and cognitive experiments probing how perception itself is generated. This question echoes Plato’s “Allegory of the Cave”: like prisoners mistaking shadows on the wall for reality, we too may be mistaking technologically reconstructed images for the “real.”
Yet today’s shadows are not innocent illusions—they are algorithmically curated, collectively reinforced, and strategically engineered tools of cognitive warfare.

In the series Aim an Arrow at the Rock in the Ocean, the subject is not the object being seen but the very structure through which the act of seeing is directed toward the object. The gaze of the viewer—guided by the one who makes visible—strikes the seen, sometimes piercing unexpected places. I consider this structural violence inherent in the act of seeing to be the ethical core of photography itself.

My obsession with seeing is not merely cultural or aesthetic; it stems from a biological impulse inscribed in life itself. For most species, including humans, vision has been a means of survival—a tool for prediction. The visual system is not just a passive receiver of light but an algorithm for detecting threats, identifying prey, and anticipating danger.
In this sense, vision is an inferential apparatus designed to predict “what will happen next.” This physiological mechanism corresponds to the neuroscientific theory of predictive coding, which reframes perception not as passive input but as a generative model.


We do not perceive the world as it is; we constantly predict it and update our models through error correction. From this perspective, generative AI may be the most accurate simulator of the human visual system—an apparatus that predicts, errs, and refines.

As Jakob von Uexküll noted, every organism experiences the world within its own Umwelt—its subjective environment. Human vision, too, is a culturally and biologically conditioned Umwelt, not an objective view of reality.
Today, with the advent of AI vision, we are beginning to share the world with a new kind of perceiving other—entities possessing a perceptual system fundamentally different from our own.
AI extracts meaning from data and constructs within itself a “magical Umwelt,” producing images that are not mere imitations but manifestations of an alien perceptual logic.
My practice seeks to visualize this interface where the human and machinic Umwelten meet—a critical investigation of the boundaries of perception.

I do not treat system errors or AI hallucinations as bugs to be corrected. Rather, I find beauty in the uncontrollable glitches and noise that systems produce, viewing them as brushstrokes that expose the medium’s inner reality.
Much like wabi-sabi in the Japanese tea ceremony finds beauty in imperfection, or as animistic beliefs see spirit in all things, I approach AI’s unintelligible phenomena as expressions of an “other intelligence” to be received and coexisted with.
While I approach the system’s black box with structuralist logic, I also surrender to the unpredictable images that overflow from it. The tension between “logical construction” and “surrender to contingency” lies at the heart of my work.

 

What distinguished Homo sapiens from other species was the ability to cooperate by sharing fictions with strangers.
By believing in abstract narratives—religion, myth, nation, money—humans built solidarity beyond individuality. The medium that made such “shared fictions” possible was the visual system of sharing—first painting, then photography.
These images were never mere representations; they were devices for constructing social perception and sustaining collective consciousness.

In summary, my practice seeks to deconstruct the structures of the gaze, critique the institutional systems of visual communication, and reexamine the technologic extensions of perception—using photography as a recursive tool for reflecting on the future of human evolution.

2025.November.21       Taro Karibe

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